文章が読まれる速度

 


文章を読む速度に適正があるように、文章が読まれる速度にも適正があるのかもしれない。

 

 

 

ここで言う文章を読む速度というのは、個人個人が読んでいる文章の意味や意図などの内容を理解できる速度を適正速度として考える。

 

この、文章が読まれる速度に関してはインターネットで検索しても誰も言及していない。恐らく誰かがしているのかもしれないが、少なくとも、この「読まれるスピード」というものを表すような言葉は存在しない。

 

 

 

こういったブログなどの文章は、伝えることに主眼に置いた、あくまでもツールとしての”文章”であって、詩作などの表現媒体の一部としての「文章」には、書き手の想定した適切な「読まれるスピード」というものが存在するのかもしれない。

 

但し、詩や短歌、川柳、俳句やその他諸々の表現としての「文章」が、あくまで書き手による、理想的な読み手の解釈の最適解が存在する場合のみに当てはまる。

 

 

 

そもそも、書き手が想定する解釈というものが前提にある「文章」というのは、果たして本当に根源的な表現という考え方に反していないのか?

 

というのも、ある「文章」が作品として成立して作者の下から離れた場所にあるとき、その作品の解釈というのは、裏付けや、製作背景、時代背景などを超えて、読み手に委ねられるのが、こういったあらゆる創作物を評価する上での基本となるのでは、という考えも浮かぶ。

 

また、やはり文章というコミュニケーションツールの特性上、書き手が意図した早さで「文章」を読み手に伝えるというのはほとんど不可能に近い。

 


それでも、作者が作品を作るに至った原体験を普遍化、もしくは一般化するために、こういった「文章」での詩作、殊に叙情的な「文章」ほど、作品というフォーマットに落としこむのであって、やはりこの世にある、文章のみで構成される情感に訴えかけるようなものの多くは、「文章」は適切な速度が想定されることで、よりその原体験に近いような感覚を読み手に与えることができるのではないか。

 

ここで言う原体験に近いような感覚というのは(追体験とは微妙にニュアンスが違う)、書き手が、作品を残すまでに至った発見や感動などを、その原体験とほぼ同等に伝えるための表現としての「文章」であって、読み手が、作品を手にとって意図を読むところまでは、書き手が操作するためのこれも一種の表現として文章を読む速度というこれまでにない制約を加えても良いのではないか。

 

意図を読み取ったあと読み手がなにを感じるか、そこからはその人自身に委ねられているのであって、書き手の意図した文章を読みこぼさないためにも、やはり文章を読む速度という新しい指標を確立するべきではないか。

 

 

 

この文章を読む速度というのは、意図を読みこぼさせないために、スピードを落として読んでもらう一辺倒ではない。

 

文章というツールの持つ性質上、文字そのものを大きくしたり、色を変えたりしない限りは、その文章の芯となる箇所も末端の枝葉となるような文章も等価として扱われる。

 

そういった場合に場面場面でここは前振りに相当する部分であるから斜め読みする箇所、など読ませるスピードを早めたりすることも可能である。

 

また文章はオンラインの場所以外で一旦生み出されたものは修正不可能であるということが大前提ではあるが、前振りに相当する部分であるから、作者の意図通り斜め読みで読んだ後、よくよく時間をかけて読んでみると実は重大なトリックが隠されていた、などの新しいレトリックの獲得にも繋がる。

 

 

 

本当に文章の上手い人はそういう全てを織り込み済みで「文章」を書けるんだろうな。なんともここで論じたこの「文章」も不毛なものになってしまった。今回ここで思ったことは全て斜め読みで読めという僕の願いも込められている。