クソ映画の存在意義

つらいことあったときクソ映画見ることでつらさを回避している。良い映画ばっか見てると感動が薄れる。良い映画ってその感動をここがどうよかったとかここでこのカタルシスがうんぬんまとめるのも難しいけど、クソ映画ならいくらでもダメ出しできる。つらいことがあったときにはそのつらさをクソ映画で上塗りしてめちゃくちゃダメ出ししてる。その時の俺はまるで「人としては好きなんだけど、、、」という免罪符で周囲から微妙に嫌われて距離を置かれているバイトリーダーの小言のように100%の悪意がめちゃくちゃに出る。これは新しい心身のデトックスとして機能しているのかもしれない。クソ映画の定義も曖昧模糊としているが世間的にクソの烙印の押された映画を好んで見るというよりも良いところも悪いところもない凡庸すぎるが故のクソ映画を俺は愛している。夜中に無性に食いたくなるファストフードみたいな感じでなんか寝れねーと思ったときや悲しいことがあったときに見てる。原作があるならなおさらよくてああこの原作者はこの映画を見て怒り狂ったんだろう、俺じゃなくて本当に良かった、というニュアンスの最悪の処方箋になっている。原作者も「この予算でこの俳優ならば私の魂のこもった作品を売り渡してもいいだろう」みたいな感じで契約書にサインして完成をウキウキ待ってるだろうに、映画がつまらなかったら原作もクソ扱いされるのは本当にかわいそうで同情する。ここ最近普通に良い映画ばかりに当たっていて生活の質が高い上での退屈、甘美な飽食が続いている。たまにはハズレを引いてインターネットのサーバー上に漂うクソ映画の被害者たちの文章を見て俺の中にある被害者意識をモリモリ成長させていきたい。この条件に当てはまるようなクソ映画情報も随時募集しています。クソ映画を愛していると言ったが「ギャラクシー街道」、お前はダメだ。断罪に値する。クソ映画よ、ありがとう。そして永遠に。

 

 

最後に全く関係ないが、平成最後の年にモーヲタになった俺おもしろいな