返信

目が覚めると俺は巨大な虫になっていた。

甲虫である。仰向けになっていて動くことができない。会社に遅れると連絡を入れたいがこんな状態ではそれすらできない。そもそも声帯はあるのか?声を出そうとしてみたが何も音らしきものは出なかった。か細い足がじたばた動いただけだった。六本足の側面に釘バットのように忠実に生えている棘がベッドのシーツに引っかかって裂けた。

時計を見るとまだ午前5時4分だった。寺山修司の命日は5月4日だったことを思い出した。複眼のおかげなのかいつもより鮮明により立体的に目覚まし時計が見えた。電池が消えかかっているのかデジタル文字の5の縦棒が薄いのまではっきりと見えた。人間に戻れたら電池を買いに行こうとぼんやり思った。

いつも家を出る7:30までにはなんとか人間に戻りたい。

とりあえず起き上がることすらままならないのでなぜこんな状況になってしまったのかの記憶を探っていくことにした。

昨日は21:00過ぎに退勤し24時間のスーパーで惣菜と酒とトイレットペーパーを買った。トイレットペーパーを買うのはいつもなんだか恥ずかしい。側から見てもあぁあの人は今家にトイレットペーパーが無いんだな、というのがわかるしトイレットペーパーはかなり体積が大きいので持って帰るのも不恰好になるからである。スーパーから家までは15分ほどあり、大通りを通らなければならないので人目が気になる。

そんなことはどうでもいい。

自宅に帰ると強烈な眠気に襲われ這うようにベッドにたどり着いて眠った。誰かからのメールが来ていたような気がするが返信する余裕はなかった。森で迷って鹿を頼りに歩く夢を見た。

目を覚ますと今の状況である。

その昔フランツカフカなる人物の代表作の変身でも同じような境遇の男が描かれていたがどんな内容だったかは忘れた。確か人間に戻れずそのまま死んだような記憶がぼんやりとある。俺もこのまま戻らないのかと一瞬不安がよぎったがすぐにどうでもよくなった。中途半端に戻るくらいならずっとこのままでいたかった。虫になった今でもこのように抽象的な思考ができるのに今更気づいてこれまで殺してしまった虫たちへの申し訳なさが溢れてきた。これからは出来るだけ優しく接しようと思った。

急に変身してしまったのをリアルに感じて不覚にも声を出して泣いてしまいそうになった。少しだけ声が漏れたような気がした。その音は泣き声ではなく羽が震えて聞いたことのないような音を奏でていた。ただ不安な気持ちは全くなかった。隣の部屋から壁ドンがあった。俺は泣くのをやめた。

窓から日光が漏れ始めた。空を見るのは久しぶりだった。雲はなかった。

しばらくするうちに腹が減ってきた。腹が減ると大抵のことはどうでもよくなるもので自らが仰向けになった175cmほどの甲虫であることを束の間忘れた。いつも朝飯は超熟と味噌汁(インスタント)とコーヒーだが今日はやたら甘いものが食べたかった。味なんてどうでもいい、甘味成分の凝縮されたなるべく密度の高いくどい味を欲していた。これは現実なのだろう。俺はどうやら本当に甲虫になってしまったようだ。頭の中に樹液のイメージがチカチカして消えない。

こうして今虫になってしまっているのにもかかわらずさっきからどうにかしないとみたいな気持ちが全く湧いてこない。虫には不安を感じる感受性がないらしい。気が動転しているにもかかわらずなぜか楽観的である。これはいい。外見以外の問題は完璧に解決されたと思った。

また強烈な眠気に襲われた。抗うことも出来ずに目を瞑るとそこはまた森だった。さっきと違うことは俺はそこでは迷わなかった。鹿もいなかった。迷うことなく出口に辿り着いたところで目が覚めた。身体が戻っていた。

手で確認する。目の窪み、耳、少し曲がった鼻、あごひげ。

俺は人生で初めてこの身体であることを感謝した。甲虫になるのも悪くないと思っていた自分を思い返してゾッとした。

そうして身体を起こしたときあることに気づいた。ベッドのシーツが破けていた。何かに引っかかって力が入ったような裂け方だった。

時計に目をやるともう午前7時を過ぎていた。

俺は急いで会社へ行く支度を整え家を出た。くどいほど甘いものはもう食べたくなかった。返信していないメールの存在も忘れたまま今日が始まった。